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ZED



改めてシルクドソレイユのファンになった。

この総合舞台芸術というヤツは相当に素晴らしい。

展開される世界に引き込まれる感がある。

引き込まれている間、観客は永遠を感じているのだ。


挿入されていた2人のピエロの寓話が相当に秀逸。

バトンの演技が一番好きだった。

エンドロールでは全てがそれぞれありのままに現れ、最高にしあわせな気持ちになれる。

この時空間に共にいられたことに感謝を感じる。
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コモンビート第10期東京公演


コモンビート


毎回友達が誰かしら出るので毎回観るハメに。

もう5回観てるわよアチキ。


乃公はいつも、『人々が溶け合い始めるけど、権力者たちが保守的にそれを阻む』
というシーンでグッと来て涙が溜まる。

「そうだよねぇ。人間ってそうだよねぇ」って感じ。


さて

コモンビートの舞台は「脱け殻」だと思う。

もちろん、この舞台から多くの人がpowerをもらうのだが
「そのpowerの力」を乃公はあまり信じていない。

映画やマンガ、小説と同じく、その場からいったん離れてしまえば
もうその力は死んでしまうのだ。

コモンビートの真価は
「100人100日」というプロジェクトの過程そのものにある。

世界や社会というものが、どこか我々の日常と離れた場所に存在するのではなく
この「乃公」そのものに存在する
むしろ、乃公があなたが、彼、彼女が世界であるならば
コモンビートの魂を毎期、100人がもつということこそが大きな価値を有するのだ。


舞台が終わった役者たちに接するとき乃公はいつも戸惑う。

なんという言葉をかけることが適切であろうか。

「よくやったね」だろうか「(いい舞台を)ありがとう」だろうか「お疲れさま」だろうか。

いずれも違う。

ア コモンビート(共有する鼓動)というひとつになることを目指すものに対し、
上記のような言葉をかけることは

「私(客)とあなた(演者)、なにもひとつにはなっていない」という大きな矛盾をもって
応えることに他ならないからだ。


舞台や芝居という役割はどこへ征くのだろうか。

「(お前と乃公で創り上げた舞台は)楽しかったね」と言える舞台に出会ったことがない。

今後もきっと会えないだろうと思う。それは役割ではないのだから。

コモンビートは大きな存在意義がある。
そして舞台も漫画も映画もそれぞれが強力な役割を有しているのは間違いない。
乃公だってこんなブログをやっているくらいだ。それは否定しようもない。

だが、敢えて言いたい。

主客を分ける、舞台という「結果」の時代は終わりだ。
プロジェクトという「経過」の時代ではないか。

フレディ


フレディ/テアトルエコー


会社の近くに芝居小屋があるという恵まれた環境だ。

たまたまよく見てみたらたまたま初日公演でたまたま二千円引きだったので
観ることにした。

満員でした。

ここで奇妙な感覚を知る。

お客さんがどういうわけか年配の方が7割ほどいた。

なんか変な感想で申し訳ないのだが、お客さんが年配の方が多いので芝居もなんとなく古くさいものに思えてしまった。

すごい色眼鏡な感想で恥ずかしいが本音である。

主役の方はベテランの方のようにみえて、主役としての華に富んでいて素晴らしいと思った。

アンケートにも書いたが、お客誘導のスタッフの方がとてもていねいで
気配りに富んでいて、とても気持ちよく観劇できた。

もてなしの効果の絶大さを実感した。

喜劇ってのはいいね。

内容に悲しいことや死を含んでいても最終的に幸せな気持ちになれるのがスゴい。

この劇団のモットー「we love comedy」ってのは素晴らしいと思った。

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